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渋沢家はどの様にして藍玉で財を成したのか

渋沢栄一の父が藍玉の製造と販売で財を成したと言われています。渋沢家の藍玉事業は単に藍玉を作って売るという一口で言えるようなものではなく、現在のメーカーが行っている、仕入れ・製造・販売のシステムを構築して事業を形成していました。

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藍玉「事業」

渋沢家、栄一の父・渋沢美雅(市郎右衛門元助)は、藍玉の製造・販売で財を成したと言われています。農家から藍の葉を仕入れ、渋沢家で藍玉を製造し、紺屋(染め物屋)に販売する商売をしていました。「作って売っておしまい」という訳ではなく、事業として藍玉を扱っていました。

藍の葉の仕入れ

藍玉である藍の葉を渋沢家でも作っていましたが、耕作面積も広くなく、販売している藍葉商から藍の葉を購入していました。渋沢家があった武蔵国榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市血洗島)の周辺では、「武州藍」と呼ばれる藍染めに使う藍の葉がよくとれたこともあり、渋沢家はその藍の葉を周辺の村々で買い付けていました。特に、栄一の父・美雅は藍の葉の目利きが良く、質の良い藍の葉を仕入れていました。

栄一は父に連れられて仕入れの様子を見ていました。その時に父からは教わってはいませんが、、同行しているうちに、藍の葉の品質の良し悪しや、父の取引交渉の様子を見て学び、後に、仕入れを手伝うようになりました。

藍玉製造

藍玉は「作れば売れる」という訳ではなく、やはり質の良い藍玉を渋沢家で製造していたことが、藍玉販売の成功につながっています。大まかには、下記の様にして藍玉を製造していました。

  • 藍の葉に水をかけてムシロで挟んで納屋で寝かす(発酵)
  • 灰汁を入れて臼でつく(黒く粘土質の様な状態になる)
  • 小さく丸める(藍玉の完成)

発酵の工程で水加減や温度の調節が必要で、絶妙な技術が必要となります。一度に大量の藍の葉を使って、藍玉を作るため、ちょっとでも間違えれば、全部だめになります。渋沢家はその技術に長けており、とても品質の良い藍玉が作られていました。

藍玉の販売

さて、渋沢家で製造した藍玉は、信州上田(長野県上田市)・上州(群馬県)・江戸の紺屋に販売していました。当時は徒歩しか移動手段がありませんでしたので、当然歩いて行くわけですが、藍玉は運搬に向いているので、血洗島村周辺だけでなく、遠路に販売も行けたわけです。

いくら藍玉が運搬に適していると言っても、注文を貰ってから合点招致で少ない量を持っていくのは大変な労力がかかります。しかも、紺屋は、農家が農作業の合間の季節に行っていました。しかも、それほど大きくない農家ばかりで、何件も売り歩く必要が出てきます。

そこで、年4回に分けて信州や上州を回り、売り掛け販売を行っていました。春と秋は農作業で手いっぱいなので、農家の様子を見に行き、注文があれば取り付けます。ここでは代金をもらいません。夏と冬は、春と秋に比べると農家の作業も落ち着いているので、染め物の商売が出来きます。その時に、使った藍玉の代金を貰い、追加注文が入れば、後日、藍玉を送る…というサイクルを行っていました。

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編集後記

渋沢家が、一口に「藍玉の製造・販売で財を成した」と言っても、仕入れ・製造・販売をちゃんと考え、事業として形成しています。特に、販売の部分で、「藍玉を売っておわり」ではなく、顧客のもとへ定期的に通い、必要な量だけとどけて、使った分だけ代金を頂くといった顧客に優しい事業を行っていたとも言えます。

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参考資料

第1巻(DK010003k)本文|デジタル版『渋沢栄一伝記資料』|渋沢栄一|公益財団法人渋沢栄一記念財団

『父 渋沢栄一』(実業之日本社文庫)

『渋沢栄一』(人物叢書)

2021年放送の大河ドラマ『青天を衝け』の主人公・渋沢栄一。当サイトでは、放送されるエピソードの他、放送されないエピソードも執筆しています!是非、大河ドラマと合わせてお楽しみください!