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渋沢栄一と西郷隆盛と豚鍋

渋沢栄一が平岡円四郎の命令で、西郷隆盛に会ってくる様に平岡から言い渡されました。西郷隆盛は薩摩藩の有力な藩士でしたので、会うだけでなく、薩摩藩の内情を探るスパイ役としてでした。

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当時の情勢

少しだけ当時の日本の情勢を説明します。渋沢栄一が西郷隆盛と会ったのは1864年(元治元年)3月ごろ、禁門の変長州征討(長州征伐)の数か月前でした。どちらも歴史的な大事件ですが、その様な事件の数か月前から京はピリピリしていたのです。

西郷隆盛は京に入る前、大島吉之助という名前で沖永良部島に島流しにされていました。しかし、薩摩藩が公武合体の活動をしたくても人材不足ということもあり、西郷隆盛を呼び戻すことにしました。

このあたりを詳しく説明すると、本記事が西郷隆盛の話になってしまいますので割愛させて頂きます。

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渋沢栄一と西郷隆盛の接点

渋沢栄一と西郷隆盛の接点ですが、栄一は一橋家の御用談所で働いていたため、諸藩との事務的な用事で、多くの人と接触することが多く、西郷も栄一が接触したことのある一人でした。

接触と言っても、色んな藩に行って事務連絡や書類を渡すなど、誰でも出来そうな仕事で顔を合わせるくらいです。加えて、何気ない世間話をして帰るというくらいですが、それでも、何度も顔を出していれば、「おお、また来たか!」と顔を覚えてもらえます。そうしているうち、今日の晩御飯の話から将来の目標の話、ちょっとした噂話などの雑談も盛り上がるわけです。そうして、諸藩の情報を集めて回っていたのが栄一たちの仕事の側面でもありました。現代でも、そういうことがあると思います。

平岡は、栄一が仕事で西郷と会っていたこともあり、「西郷と話してきて、西郷が今の情勢をどのように考えているか、何か行動を起こそうとしているか調べて来てくれ。」と命じたのでした。

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相国寺の西郷隆盛

西郷隆盛が京都のどこで生活していたかと言うと、京都の相国寺でした。相国寺は京都御所の少し北にあります。

相国寺 | 臨済宗相国寺派

京都の豪華な旅館に住むわけでもなく、かといって薩摩藩の重要人物であるため忙しく、そして情勢が乱れている京で一人暮らしも危険ということで、相国寺に住まわせてもらっていました。女と一緒に住んでいる気配もなく、老僕を一人だけ使っているだけでした。

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西郷隆盛との談論

平岡の命令で栄一は相国寺の西郷を何度か訪ねます。ちなみに、栄一の西郷に対しての当時の評価はと言うと、

  • 上野公園の銅像より13年くらい若い
  • 太い眉、大きくギロリとした目、力士みたいな太った身体

と言っています。しかし、本当にちょっと話したことがある知り合い程度で、よくそんな状態で「行ってこい」と命じた平岡もなかなかです。それくらいの繋がりで探りを入れてこいと命じているあたり、平岡は栄一のことをかなり信頼していたと言えます。

渋沢栄一と西郷隆盛の時局談

西郷は当時、天下に名高い薩摩の有力な藩士で、人を圧倒する様な風貌でしたが、どこか包容力があり、とても親近感があり、栄一も新進気鋭の若者で芯の通った人柄でしたから、栄一と西郷は、お互いに惹かれるものがあったのでしょう。お互い、持論を展開しながらも、二人の話は弾みます。

西郷が「今の政治、どう見る」と聞くと、栄一は、

  • 改革している様には見えても、改革が進んでいる様には見えない
  • 老中政治が腐っているので、政治の土台から改革しなければならない

と言います。西郷は「それは同感だ。一橋家の人間で幕府にも近いはずなのに、思い切ったことを言う。」と関心して、栄一の経歴を聞きます。栄一は隠すことなく、京に来た経緯を話し、平岡が配慮してくれて牢屋に入らずに済み、一橋家に仕えている、と言う事を話します。それを聞いた西郷はとても気に入って栄一を褒めました。

西郷の国家構想

夕食時になったので、西郷が「腹も減ったから、食べながら話そう」と言ったので、豚鍋を用意してくれました。豚鍋を食べながら西郷が言うには、

  • 老中政治は廃止
  • 有力な藩が集まって合議で政治を決める、新しい政府が必要
  • 国策を立て、国を動かす

という新しい国家の構想でした。後の明治政府の大きな枠組みを考えていたのです。そして、「一橋家も政府に加わって、政府の盟主になればいい」と言います。ただし、西郷は一橋家の当主である一橋慶喜(徳川慶喜)に対しては少し評価が低かったようで、「慶喜公はどうも腰が弱くていかん。」と言っています。

それに対して栄一は、「だったら、西郷さん、あなたが新しい政府の中心人物になったらどうなんです」と言いますが、西郷は「それはいかん。そんな簡単にいくものではない、なかなか難しいことだ」と言います。

そして、西郷との話も終わり、相国寺を出ると、栄一は西郷と話した内容を慶喜に報告します。慶喜は「確かにその通りだ」と頷きました。凡庸な大名であれば「気に食わない」と言って激情するところかもしれませんが、慶喜は広く意見を取り入れるタイプでしたので、流石と言ったことろでしょうか。

スパイで西郷を訪ねた栄一でしたが、豚鍋を食べながら話したことがきっかけで、栄一は西郷のところに何度か行って豚鍋をごちそうになります。

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編集後記

ここからはオマケです。栄一は西郷と何度か会って、豚鍋をごちそうしてもらっています。なんでも、西郷曰く「話しているうちに腹が減って来た、これでは話に身が入らん」と言って、夕食時だからと帰ろうとしている栄一を西郷が呼び止めて、一緒に豚鍋を食べながら話を続けるのです。ちなみに、この豚鍋ですが、塩出しした琉球豚と芹(せり)を一緒に煮て食べる鍋で、当時、薩摩で流行っていたものでした。

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参考資料

第1巻(DK010020k)本文|デジタル版『渋沢栄一伝記資料』|渋沢栄一|公益財団法人渋沢栄一記念財団

デジタル版「実験論語処世談」(6) / 渋沢栄一 | デジタル版「実験論語処世談」 / 渋沢栄一 | 公益財団法人渋沢栄一記念財団

『父 渋沢栄一』(実業之日本社文庫)

2021年放送の大河ドラマ『青天を衝け』の主人公・渋沢栄一。当サイトでは、放送されるエピソードの他、放送されないエピソードも執筆しています!是非、大河ドラマと合わせてお楽しみください!