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幕臣になってしまった渋沢栄一

一橋家で着々と実績を積み重ねる栄一。当時の一橋家の風通しの良さもあり、1865年には勘定組頭になり、新たな仕事も請け負う様になります。同じく一橋家に仕官した渋沢喜作も軍制所調役組頭に抜擢され、栄一と喜作は、それぞれの長所を認められて共に出世するのでした。しかし、ここで思わぬ大事件が起こります。

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慶喜、将軍になる

苦戦する幕府

当時、長州征伐のために幕府は諸藩から兵を集め、将軍・徳川家茂自身も自ら出陣しました。紀州藩主・徳川茂承(もちつぐ)を第一陣の総督として、幕府は長州に軍を進めますが、どこもかしこも旗色は悪く、そうしているうちに家茂も大坂で病死してしまいます。そして、幕府は慶喜を将軍に迎えようと画策していました。

栄一の考え

栄一としては、慶喜が将軍になるのは反対でした。栄一は、徳川宗家と一橋家が共倒れになることを避け、日本の国力を底上げする構想を抱いており、具体的には、

  • 慶喜は京都守衛総督に留まるべき
  • 一橋家が大坂城を貰い受ける
  • 一橋家を近畿中心に50万石~100万石に加増

と考えていました。幕府の石高は700万石でしたので、そこから100万石を…と言うのは少し無理がありますが、一橋家の用人筆頭・原市之進もその考えに同意し、栄一が慶喜に直接会って話す機会までセッティングしてくれたのです。

慶喜の宗家相続

ところが、栄一が慶喜に直接会う日までに、幕府からお達しが来てしまい、慶喜は1866年8月20日に徳川宗家を継ぐことになりました。ただ、慶喜自身も思うところがあった様で、将軍職はしばらく引き受けませんでした*1

これを聞いた栄一は自分の考えを伝えることが出来なかったと悔しがり、「慶喜公は腰の弱い貴公子だ。これから先が思いやられる」と愚痴をこぼします。

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栄一、幕臣になる

最前線に志願

さて、慶喜が徳川宗家になったことで、栄一は勘定組頭から御用人手附(ごようにんてつき)という職に就きます。長州征伐軍の本営勤務、つまり従軍するということです。現代で言えば、事務方の仕事をしていたところ、急に営業部に異動となったわけです。しかし、栄一は第一線に立つことを志願します。

倒幕を計画したものの反対があって頓挫し、コネを使って京都に逃げて、食い扶持が無くなり長七郎が捕まったとなって、幕府の手が伸びようとした時に、平岡円四郎に助けられて、あろうことが一橋家に仕官した栄一。慶喜が宗家を相続して、将軍職を継承するとなると、倒幕を企んでいたのに幕臣になるかもしれないという、栄一はなんとも言えない心境になり、その鬱憤を晴らすために、自ら最前線に立って潔く散ることを望んだのです。

遂に幕臣になる

栄一自身、御用人手附に就任しましたが、戦場に出ることはありませんでした。そして1866年12月5日、徳川慶喜は将軍宣下によって江戸幕府第15代将軍に就任します。栄一はと言うと、陸軍奉行支配調役に就任します。今までの一橋家での仕事を後任に引き継いで、京にある幕府の詰め所で働くことになりますが、今まで得意としていた経理の仕事から離れたこともあり、仕事に身が入りませんでした。

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編集後記

倒幕を計画していたのに紆余曲折あって幕臣になった栄一。幕末は多くの人が時代に翻弄されましたが、栄一もその一人だったのです。そして、栄一は新しい仕事を任せられますが、この仕事が栄一の運命を大きく変えることになるのでした。

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参考資料

第1巻(DK010029k)本文|デジタル版『渋沢栄一伝記資料』|渋沢栄一|公益財団法人渋沢栄一記念財団

第1巻(DK010030k)本文|デジタル版『渋沢栄一伝記資料』|渋沢栄一|公益財団法人渋沢栄一記念財団

『父 渋沢栄一』(実業之日本社文庫)

『渋沢栄一』(人物叢書)

2021年放送の大河ドラマ『青天を衝け』の主人公・渋沢栄一。当サイトでは、放送されるエピソードの他、放送されないエピソードも執筆しています!是非、大河ドラマと合わせてお楽しみください!

*1:将軍就任は12月5日の将軍宣下になる。