鎌倉幕府の成立というのは1192年、「いいくにつくろう鎌倉幕府!」の語呂合わせで覚えた人が多いと思います。しかし、その語呂の良さがアダとなり、テレビやネットの各メディアで「鎌倉幕府は1192年に成立していない!」という謎の論争が引き起こされてしまいました。
ところで、1192年以外の鎌倉幕府成立説、いったいどんなものがあるのでしょうか?
鎌倉幕府の成立はいつなのか?
ぶっちゃけると、歴史なんて言うものは後世の人間が勝手に論じているだけです。とはいえ、歴史のテストで鎌倉時代は避けられないので、歴史のテストでは1192年が正解です。
ただし、最近の歴史のテストでは鎌倉幕府の成立が何年であるのかを問うのではなく、
みたいな聞き方をします。
源頼朝が地頭・守護を設置したのは1185年ですし、征夷大将軍に任命されたのは1192年なので、それは揺るぎない事実です。
この曖昧な感じ、日本人特有の表現方法です。歴史の教科書にも、「鎌倉幕府が成立したのは○○年である」という表現を用いていません。
鎌倉幕府の成立年と言われている出来事
では鎌倉幕府が成立したのはいつなのでしょうか…という説は、何人もの歴史研究家がいくつかの説を提唱しています。
- 1180年:侍所の設置
- 1183年:寿永二年十月宣旨
- 1184年:公文所・問注所の設置
- 1185年:地頭・守護の設置
- 1190年:頼朝が右近衛大将に任命される
- 1192年:頼朝が征夷大将軍に任命される
それぞれ解説します。
鎌倉幕府成立説①1180年:侍所の設置
1180年に源頼朝が侍所を設置し、これを鎌倉幕府の成立とする説です。これは「武士たちを統率する組織を作り上げた」という点に着目しています。
侍所(さむらいどころ)とは、軍事・警察を担当する組織のことです。
要人が出席する様々な行事では多くの御家人が警備に就きますが、これを御家人に召集をかけたり、警備を指揮するなど、御家人たちを統率するのが侍所の仕事です。
源頼朝が挙兵後、一番最初に作った組織が侍所です。頼朝は関東の武士に協力を得るために本領安堵と新恩給与を行いました。いわゆる、御恩と奉公の原型です。
利害関係で頼朝に協力しているので、いつ裏切るかわかりません。その武士たちを統率する目的で侍所を設置しています。
鎌倉幕府成立説②1183年:寿永二年十月宣旨
1183年に朝廷から源頼朝に下された宣旨(せんじ)をもって、鎌倉幕府の成立とする説があります。朝廷が源頼朝に対して、東国にある荘園や朝廷の領地から年貢を取り立てる代わりに、頼朝の東国支配を認めたものです。
武士の世の中になっても、朝廷の影響力は多少残っており、武士は朝廷に認めてもらうことで正当性が成り立ちます。ただし、東国における実質の支配権は源頼朝にあったので、正当性を明確にするために朝廷に宣旨をお願いしたという説もあります。
いずれにせよ、源頼朝の東国支配の正当性が認められた1183年の宣旨により、鎌倉幕府の成立と見ている説です。
鎌倉幕府成立説③1184年:公文所・問注所の設置
1184年に、源頼朝は公文所(くもんじょ)と問注所(もんちゅうじょ)を設置します。先述した侍所と合わせて、政府としての組織体制が固まった段階を鎌倉幕府の成立とする説です。
鎌倉幕府成立説④1185年:地頭・守護の設置
1185年、平家が滅びると、源頼朝は朝廷から地頭・守護の設置を認められます。
1183年の宣旨も同じですが、朝廷からのお墨付きをもらって、堂々と行政機関や警察機関を設置して支配体制を確立し、これを鎌倉幕府の成立と見ている説です。
現実的に考えて、頼朝直属にいる配下の武士や御家人と呼ばれる鎌倉の武士だけでは、各国の治安維持や行政が出来ないので、朝廷に対して地頭・守護の職の設置と任免権(任命したり解任したりできる権利)を認めてもらい、正当性を得たうえで各国の武士に支配を任せるというものです。
朝廷に認められている以上、万が一、地頭や守護が支配している土地に問題が起きて、解決できない場合は、現職の地頭や守護を解任することも出来ます。
鎌倉幕府成立説⑤1190年:頼朝が右近衛大将に任命される
1190年、源頼朝は朝廷から右近衛大将に任命されます。
右近衛大将とは、律令制における武士の最高官位です。頼朝の実力は充分でしたが、権威のある官位を持つことで、名実ともに武士の頂点に立ち、これを鎌倉幕府の成立とする説です。
また、近衛大将の唐名(中国での名称)は「幕府」であるので、この右近衛大将の任命をもって鎌倉幕府の成立とする説です。
鎌倉幕府成立説⑥1192年:頼朝が征夷大将軍に任命される
1192年、源頼朝は征夷大将軍に任命されます。説明不要の定説です。
何故、鎌倉幕府の成立年が確定しないのか?
何故、こんなにも説が出現してしまい、明確な成立年が確定していないのでしょうか?
こっちの理由は簡単です。権威のある歴史の学会で支持数が割れているからです。
歴史学に関する学会では、提唱された説に対して、学会の構成員である大学教授や研究者の支持数が多ければ(極端に言うと、民主主義最大の欠陥である多数決において、51対49の賛成多数であっても)、歴史の定説として確定します。揺るぎない証拠があれば学会に参加している人が全員支持しますが、説得力はあるが微妙な説に対しては支持しない人もいます。それはまだ良い方です。
「あいつ、この前、私の説を否定したから」という感情的な理由で反対に回る人もいます。また、「この説を支持すると、今までの自分の研究が全て否定されてしまう」という保身的な理由で反対に回る人もいます。全員が全員、そんな考えでは無いのですが、少なくとも、そういう世界なのです。
個人的な感情や保身という残念な理由で反対されたら歴史の真相が究明出来ないと思いますが、そんなことより我が身大事な人が少なからずいる世界なので、仕方ないと言えば仕方ないです。
その事実を知って、研究者の道を諦める人が多少なりともいます。
編集後記
源義経をかくまった奥州藤原氏を滅ぼした時点を鎌倉幕府の成立とする説もありますが、脅威となる勢力がいなくなっただけで、奥州藤原氏滅亡=鎌倉幕府の成立というのはちょっと微妙です。
鎌倉幕府を開いた源頼朝が征夷大将軍に任命されたのは何年でしょう?😺